昭和五十六年十月二十七日 朝の御理解


御理解第四十六節


 痛いのが治ったのでありがたいのではない何時も壮健なが有難いのぞ


 昨日午前中私ここで奉仕をしておる時でしたが、宮崎の前田という方から電話がかかってきた。一番口にどう云う事を云うかと云うと「もしもし親先生神様が居られる事が分かりました」という事が一番口でした。
 ね、神様が居られるという事が分かりましたち、私は今日思います。昨日もここでしたね。ですがね、いつも壮健なのが有難いのぞというその、お願いをしておかげを頂けば又、有り難いけれども、いつも壮健なのが有り難い。いつも云うならば有り難いと云う事は、いつも神様の御守護の中に合って只今があるんだという事が分かるという事だと思うですよね。
 ですからね、信心して徳を受けるとこう云いますけれども特別な事をして徳を受けるのではなくて、ここの所が分かっていけば徳はおのずとついてくる。云うならば痛いのが治ったという、痛い事をお願いして、まあ、そこにまあ治らないはずの病気が治った。はじめて神様の働きを感じた。
 この方は印刷業をなさっておられるんです。ところがちょうど五日前に、三ヶ月間もかかって書かれたというその原稿の印刷を依頼されたんです。ところが肝心の原稿が紛失したんです。もうこれが紛失するともう印刷業をやめなきゃならんというようなお願いでした。
 こりぁ五日前です。昨日、ですから今日から云うと六日前になります。どんなに手をつくしても分からんのでしたけれども、今度宮崎支部の五年の記念大祭を仕えますので何回も何回もあちらの信者さん方がいろんな会合とかいろんな御用をなさっておられます。
 一昨日ですたいね、一昨日もだから一日その御用で行っとりましたら あのう そこで紛失しておった原稿が出てきた。くわしくは今度お礼参拝してもらいますからという事ございましたがですね、まあ本当にまあ人生の浮沈ともうしましょうかね、印刷業を自分の生業をやめなければならないというような、まあ責任を感じておられたわけですが、それがどうしても分からなかったけれども、そして御用さして頂いとる間にねそれが分かったと、それではじめて、この方は大変いろいろおかげをいただいた方でもありますけれども、いわゆる本当に神様ちゃ居られるということが分かったというのです。
 まあいうならば奇跡です。ね。奇跡的なおかげを受けてはじめて神様が分かったね、だからそこが分かったら、次にはね、いわゆる本当に日々平穏無事御用が出けて居るという時がもっと有難いのだとね。
 痛いのが治ったのがありがたいのぢゃない、いつも壮健なのが・・・。だからそこん所のね、特別のおかげを頂かなければ神様は分からんというのぢゃなくてね、もう日々この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという事がね、分からして頂くという事。それがだんだん深かあいものになっていく。
 私は、朝の目覚ましのおかげを頂く時に、何かこう、しるしいような思いで目が覚めるときにゃ、はあこれは神様のいうならば本当のおかげを頂ききっていないのだなあというふうに思います。
 もう本当に神様のおかげを頂いたら、有難い嬉しい目覚ましのおかげを頂くんです、もう嬉しいです。有り難いです、けれどもなかなかやはり修業中は眠たい。
 けれどもやはりこれが修業と思うて、という修業を通り抜けた向うにしか嬉しい有難いはないです。
 ね、子供の時に例えば遠足だ運動会だという時にあもう日頃はいくら朝起こしても起きらん子供でも、パチッと目を覚ましてから、それこそ布団をけって起きるでしょう。そういう心の状態がいつでも頂けれる、神様のおかげを頂ければね。
 夕べどんなに遅くて寝る時間がなかっても、目覚ましのおかげを頂くと途端に兎に角、兎に角うれしい。まあそれをまあ大げさに云うと又今日も生きておったという目が覚めたという証(しるし)ですからね。目が覚めなかったら大変な事になる。ね、明くる日は火葬場行き。だから目が覚めたという事が有難くてしかも今日のその御用の事を思うたら楽しゅう、それはちょうど子供が運動会やら遠足やらある時の目覚ましと同じような状態が日々頂けなからねばね、私はそういうような生活をいつも壮健なのがありがたいのぞというのは、そういう所だと思うです。
 ですから、そういう云うならば、まあ目覚まし一つでも有難い楽しい目覚ましが出けるならば、もうそれだけでお徳を受ける。私は今日は特に、この四十六節とこうあるのでね。四十(始終)という事はいつもと云う事。六(禄)という事はここでは徳といわれますから、いつもお徳を受けるチャンスの中にあるんだということ。
 それは今あなたがどんな場合であっても嬉しいのか楽しいのか、有り難いのかと、まあ自問自答してみるがいい。そしてそこにいやな思いやら、しるしい思いやら、腹立たしい思いやら、不平不足の心がもしあったとするならこりぁまあだ云うならば今日の御理解から云うと修業不足だなあと、何かおやつでも貰った時にゃニコッと笑う。ね痛いのが治った時にぁ有難いなあ はあもう神様が居られるのが分かりましたあーというように有難い。
 ね だからそうではないね時でもこの神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだと、そこでそのおかげを頂いて目覚ましのおかげを頂いたんですから、こんな有難い事はない。しかも御用の事を思うたら又有難い御用が出ける。楽しい。それは子供たちが遠足やら運動会の時には、それこそ楽しゅう目覚まし、のおかげを頂く、起こされんでも起きるような、そういものがいつく頂けていくというような所を焦点にしてね、お互い信心さして頂いたら、そうではない、ないならばこりぁまあだ修業不足だと思うて本気で合楽理念の実験実証に取り組まなければならんと思うですね。   どうぞ